書きたくなって書いてみた
更新です。
今回の話題はこれ↓
「上手い言葉を見つけた」
はい。
前回「更新頻度を下げる」と宣言して、舌の根も乾かぬうち(?)に更新となりました 笑
今回の元ネタの記事はこちら。
他の人のブログを読むことはほとんどないのですが、たまたま目に付いたので読んでみたら、面白かった。
この記事、特に後半については、何というか、とても頷きながら読めました。
私はこういう考え方、好きです。
「目的のない関係」か。上手い表現ですね。*1
私、椎名林檎や東京事変が好きなんですけど、彼らの楽曲の中で一番好きなのが「落日」という曲。
上の記事を読んで、この曲の一番好きな一節が思い浮かびました。
僕は偶然君に出遭って
ごく当たり前に慈しんで
夕日を迎えた
「偶然」「出遭って」「ごく当たり前に」「慈し」む。
上の記事と通じるところがあると思うんですよね。(ややずれているのかもしれませんが)
今も昔も、現実と照らし合わせれば、落日の歌詞はあまりに綺麗すぎるかもしれません。ですが、こういう言葉をこんな風に組み合わせて発信できる人自体、昔に比べれば少なくなっているんじゃないかなぁ。(ま、私は昔を知りませんけどね)
初めて観た小津作品だったのですが、これには二重に衝撃を受けました。
一つ目は、映画に描かれた日常が、当時の現実の日常の一部を表していると仮定した場合に、かつての日本では、人がそこに「ただ在る」ことがもっと許されていたであろうということ。
それこそ、先の記事の言葉を借りれば、大層な努力もしていない普通の人であっても「目的のない関係」を当たり前のようにもっていたのだろうということ。
たとえば、休日に亭主が居間(?)で寝転がってタバコを吸っているシーン。奥さんは邪魔臭そうに接していますが、そういう亭主の行動を本気で禁止する気は感じられませんし、ましてや、婚姻関係を解消する気はさらさら無いことがうかがえます。
今のドラマでこういうシーンを使うならば(どうせ寝たばこのシーンなんて使えないでしょうが)、共働き奥さんの「ブチ切れ」ポイントになるでしょう。
二つ目は、そんな「ただ在る」ことを描いた、起伏の少ない映画であっても、作ることが許され、社会的に評価されていた(かどうかは私はよくわかりませんが)であろうということ。
白状すると、私は、この映画を観終わった直後、「え?終わり?これ、何が面白いの?」と思いました。
もし、この映画が封切りされた当時、一般の人がこの映画を観た多くの人が「面白い」と感じていたのであれば、私はもはや昔(55年前)の日本人がもっていた価値観をそれほど共有していないんだろうな、と思います。
ただ、それが良いのか悪いのか、よくわかりませんけど。
ここからは上の記事の論旨とは完全に離れますが(元から離れてる?)、私はこういう話を考えると結局「人の幸せって何だろうね?」っていう疑問に行き着きます。
今回、上の記事を読んで改めて考えてみましたが、自分が「ただ在る」ことを自分自身が心の底から許せる状態になったときに幸せを感じるのかなぁ、なんて思いました。
少なくとも今の私の場合、目的がある関係が多かろうがない関係が多かろうが、結局は「自分がただ在ることを自分で許せるか」なんですよね 笑
とは言いつつ、他人と「目的のない関係」をもつことこそが、自分のことを許す一番の方法なのかもしれませんが。
*1:「目的のある関係」というのは、関係をもつことが目的達成の手段であって、「目的のない関係」というのは、関係をもつことそのものが目的である、ということですよね?うん、上手い表現だ。