いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

結構長く書いてみた

更新です。

今回の話題はこれ、

と続けたいのですが、個人的な出来事でいろいろと思うところがあり過ぎて話題を絞りきれておりません。

どうしようかな、、

まず、「師弟」について。

昨日公開で、CMもバンバンやってる例のアニメーション映画を早速観に行ってしまいました。

私がテレビで話題の映画を観に公開初日に映画館に自ら進んで行くなんて、もう正気の沙汰とは思えないくらいの珍事なんですが、それはまぁいいでしょう。

で、観終わって、映画で描かれていた「師弟関係」について、どうにもすっきりしない感覚が残ってしまいました。

多分、師弟関係ってのは取っ掛かりの(仮初めの)関係で、本当に描きたいのは父子関係のようなので(他のレビューを見る限り)、まぁ別にどうでもいいことなのかもしれませんが、師弟関係としてはなんだかとても奇怪な構造をしてる描き方だなぁ、と。

そこから、一生において師弟関係を結ぶことができる人って相当稀だなぁ、て考えながら家に帰りました。

誰かを師と仰ぐことは、やろうとすれば(少なくとも表面的には)誰にでもできる。

だけど、師弟関係はそれとは全く違う。

師と仰がれた方が、その人を弟子だと認識しなければ師弟の関係にはならない。

師弟の関係は、教師と生徒の関係とも違う。

師弟の関係は、師の非常に個人的な、教えの本質には全く関係のない、全くもってどうでもよい癖や特徴まで、双方が全く意図せずとも、思わず弟子に一部あるいは丸ごと転写されてしまうような、そういう関係である。(これはけっこう確信を持って言える)

弟子からすれば、ある意味呪縛だ (笑)

そういう呪縛にかかる経験は、望んでもなかなか得られることではないなぁ、と。

でも、個人化が深刻なほど進んだ(らしい)今の日本であっても、師弟関係が息づいている世界が確かにあるのです。


次。

「判断を機械やシステムに任せる」ことについて。あるいは、「人間の判断によって大惨事が引き起こされる可能性を低く抑え過ぎないことの重要性」について。

これは、科学技術の使い方に関するお話。

最近(ちょっと前から?)、ホーキング博士からAIの危険性に関する警告が発せられているようですが、そんなに壮大な話ではなく、「ぶつからない車」とか「自動運転する車」でもいいんですが、まあそのくらいのところを想像しながら話を進めましょう。(まあ、どうせ大味な話になるのですが)

段々と、私たちの私生活における裁量がアルゴリズムに奪われつつありますね。

私は、私たちが自分自身の事柄について、責任を持てる行動のバリエーションがどんどん少なくなっている気がします。

このままこの傾向が進むと、私たちは自分たちで生きているのか、アルゴリズム(つまり、過去の人たちの思考の残骸、亡霊)に生かされているのか本当に確信が持てなくなる日も来てしまいそうですね。

私は、生きている実感って、大惨事が起きて、どうやったって(生物学的なり社会的なり)生き延びることができなくなるようなリスクがある世界の中で、それにもかかわらず、その都度その都度、自分の判断に従って行動してきたことで今こうして無事に生きている、という認識に由来するような気がしているんです。

そんなリスクが一回でも現実に起きてしまったらもう唯では済まないし、後戻りもできない。ただただ、自分が招いた惨事や、周囲の人が招いた惨事の巻き添えを食らった事実を受け入れるしかない。

しかも、そんな惨事は可能性にとどまらず、常に世界のどこかで本当に、しかも結構な頻度で起きていたりする。

こんなデンジャラスな世界で、今自分はここに存在できている、ってのがきっと生きている実感であり、生きるモチベーションなんじゃないのかな。

惨事を受け入れるのはとても辛い。誰だって嫌だ。
でもだからと言って、惨事の発生を構造的に抑えられるように世界を徹底的に作り変えよう、という方向性は、技術がある水準をこえて高め過ぎてしまうと、私たちには有害になるような気がする。

全ての人が全く何の心配もなくリスクも負わずに生きていける世の中が実現したら、きっと悲劇的な世界なんでしょうね。

なんか、そういう世界に近づきつつあるような、ゆっくりと自殺しつつあるような、そんな感じがする今日この頃です。


3つ目もあるんですが、疲れたからもういいや。