「Aとも〜」と「Aしか〜」に関する一考
更新です。
前回の記事で取り上げたブログで最初に読んだ記事に対する反応があったのでそれについて書いてみます。
まず、こちらを読みました。
「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記
そして、それに対する反応がこちら。
「Aしかない」とか極論を言う人の役立たなさ - プロマネブログ
ふむ。
先に表明しておくと、私は前者の意見に好意的な印象を受けています。
前者の記事の解釈の仕方が、後者の方と私では少し違うのかなぁ。
私の解釈では、「正解がない問題に対して、それでも (周囲の状況などを勘案して?) 自分の中で暫定的な解を表明できる人の方が人生楽しいよね」と言っているように読める (言葉足らずですが) 。
あと、万人に共通の一般的な問題に対して「その問題に直面した個人」を念頭に置いているかどうか、が両者の意見の違いを生んでいるような気はします。
実際問題として、生活していく上で正解のない問題に対して自分なりに対処して行かなきゃいけないことってとても多いですよね。
例が挙げられていますので引用すると
「大企業が合う人もいるし、合わない人もいる」
「学校が役にたつかどうかは、人によって違う」
これですね。
これらで言うと、まず、私たちが直面する問題は、下の例ですね。
「学校 (の勉強?) ってこれから先役に立つの?」
たぶん、大半の人が感じる疑問です。
この疑問に対する結論は「学校が役に立つかどうかは、人によって違う」です。
でも、本当に知りたいのは「私にとって役に立つの?」ということ。
これに対しては自分で暫定解を出さないといけない。
じゃなきゃ、学校 (の勉強?) が辛く (あるいは、できなく) なりますから。
自分の意見を持つ人にしか、自分の人生は選べない。決められない人は、自分の人生を生きられないんです。そしてもちろん、仕事上で価値が出せたりするはずもない。
ここらへんの文を読むと、たぶん前者のスタンスは「その問題に直面した個人」を念頭に置いているんじゃないかなぁ。あるいは、「問題に直面したあと、行動を求められる状況」とか。
たしかに、そういうときに一般論じゃ、なんの解決にもなりませんしね。
そのとき出した暫定解が間違っていれば、気付いたときに修正すればいいんですよ。
暫定解を修正できる柔軟性があれば、十分に客観的なのではないでしょうか?