久々まとめて書いてみた
更新です。
今回の話題はこれ↓
「影分身の術」
はい。
今日もわけのわからないテーマ設定ですがよろしくお願いします。
要はプログラミングです。(追記:と見せかけて、最後は死生観の話 笑)
私が最近プログラミングに凝り始めたのはこういう気持ちになったからです↓
退屈なことはPythonにやらせよう ―ノンプログラマーにもできる自動化処理プログラミング
- 作者: Al Sweigart,相川愛三
- 出版社/メーカー: オライリージャパン
- 発売日: 2017/06/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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これ、私は持っていませんが(pythonは使っています)、本のタイトルがそのまま今の私のモチベーションを表しています。
スクリプトを書いている最中にふと、「いまここで私が死んでも、私が書いた「はてなブログ投稿bot」は、(私の銀行口座から通信費と電気代が引き落とせなくなるまで)変わりなく私が買った株の評価額を投稿し続けるし、「web巡回ツール」も変わりなく決められた手順で巡回し続けるんだろうなぁ」と思いました。
しばらくは、「私の残像」がweb上で活動し続けるんですよね。
そして、それを見た人は例外なく無意識のうちに「このブログの主はどこかに存在する」と思うわけだ。
それがどう、ということでもないのですが、ただなんとなく不思議だなぁと思うんです。
私の脳みその一部がデジタル化されて、保存される。
電気と通信インフラがあれば、いつまでも活動し続けられる。
それは、テキストベースで発言もするし、その気になれば立派な経済主体として振る舞える。(今のところはweb上だけですが。)
そう考えると「スクリプトを書く」という行為は、自分の分身を作ることなんですよね。
何人も何人も「出来損ないの私」を作ることができる。
他人の「かけら」を使って、私の「かけら」をつくる。
ソースを公開すれば、そんな「私のかけら」が(利用価値があれば)他の人にも使われて瞬く間に増殖する。
あるものはそのまま使われるが、あるものは、ばらばらに分解され、改変され、また何かの一部になる。
なんだか、原子が現実世界で循環する、というイメージとも重なります。
この考えはあまり(というかまったく)人には共感されないのですが、私が死ぬときはできるだけ気づかれずに死にたいんですよね。
誰かに悲しんでほしくないですし、悲しんでくれたとしてもその人には私のことなんか忘れてすぐに日常に戻って欲しい。
私が生きた痕跡なんて隠そうとしたところで嫌でも何処かに残るだろうし、そんなものにこだわる意味も今のところ特に思い当たらない。
そういえば、ネコは死に際に姿を消すという話を何処かで聞きました。
・・・ネコなのかな、私。