話題がずれたが書いてみた
更新です。
今回の話題はこれ↓
「現代における大学の存在意義について」
はい。
大学については何度も書いていますが、いま改めて考えてみようと思います。
国立大学の人文系を廃止しようとしてますね。
そして、一部の大学はそれに向けて準備し始めたようですね。
ここにきて「そういえば、大学って何であるんだっけ?」って問われているように思います。
元来の「大学」と「現代の大学」では、どう頑張って理屈をこねようとも果たしている役割が違っておりますので「そもそも大学ってのは・・・」みたいな議論にもっていくのはちょっと現実的でないように思います。(まぁ、そういうのあんまり知りませんし。)
で、「現代の大学の役割ってのを考えてみましょう」ということになるわけですが、
お役人さんたちは、一部を除き、その存在の第一義を「職業訓練機関」と見定めて、思いっきり舵を切ろうとしているように見受けられます。
一方で、その「一部の例外」の第一義は「国力(科学技術)を世界の一定水準以上に保つ研究機関」と見定めておられるように見受けられます。
実際のところ、科学技術の維持と向上は、軍事面でも経済面でも文字通り死活問題でしょうから、「まぁ、そりゃそうか」って感じもします。
じゃあ、大学の人文系にはどういう役割があったのか?
うーん、確かに理系のようにわかりやすくはない。
人文系の出身者は事務系の職に就くことが多いイメージ。
文学とか哲学を一生懸命勉強しても、事務系の職について「勉強しててよかった!」って思うことは、人生10回やってもなさそう。
というか、法学みたいに職業と直結しているもの以外は、一般的な職業とはなんの関係もなさそうな学問が目白押しですな。
で、思うのは、「人文系の学問は、元来、生計を立てることに精一杯になってしまうようなそこらへんの庶民が手を出すようなお手軽な代物ではなかったのではないか?」ということ。
実は今までの数十年間というのは「そんな高尚な代物にもかかわらず、庶民が頑張れば手を出せたすごく幸運な期間」だったということは考えられませんかね?
そう考えると、今の流れは、人文系の学問が貴族たちの手に戻っていく過程のように映ります。(あー、人文系に行っときゃよかったかも。)
まとめると、今までの国立大学は、「庶民と貴族が交流する場所」だったのではないだろうか?と思うのです。(いや、知りませんが。)
で、話のついでに考えると、今のお役人さんたちはとっても「庶民」になってしまったのではなかろうか?
庶民といっても、非常に「プロ意識」の高い方々だと思います。
とはいえ、庶民は庶民です。
「プロ意識」はきっとどこまで行っても「ノブレス・オブリージュ」にはならないのだと思います。
私のような庶民は生計を立てる「職業人」にならざるを得ない。
どんな種類の職業であれ、それをしなければ生計が立たず、社会との繋がりも保てないのであれば、それは立派な「庶民」なのだと思います。
でも、この世界は「庶民」だけでできてはいない。
だから「庶民」にはない価値観が存在して、それが社会の制度に入り込んでいたりするのだと思います。
私にはその一端が大学における人文学なのかもしれない、と(いささか大袈裟ですが)思ったりしています。
国立大学で人文学を廃止するということは、そういう価値観を解するお役人さんがいなくなってしまったのではないか?
そう考えると今の日本って、とっても「労働者の国」なのかもしれませんね。
まぁ、それか「大学の人文学を抱える余裕すらないほどに逼迫した懐事情」なのかも。
どっちもげんなりする状況ですが、後者の方がまだマシな気がするのは、私だけでしょうか?