いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

年始の本で書いてみた

更新です。

 

今回の話題はこれ↓

「『なめらかな社会とその敵』を読んで」

 

はい。

2023年も更新頻度低めだと思いますが、よろしくお願いします。

 

読書感想文を忘れないうちに書こうと思って先に「本の林」の記事を出していますが、ブログ的にはこの記事が本年一発目のつもりです。

 

いやー、仕事納め前までは、「年末年始はオライリー本を読んだり、個人的なシステム開発に着手しようかな」なんて思っていましたが、ふたを開けてみればそんなこと一切せずに、WIREDの12月号を読んでからの「なめらかな社会とその敵」という本をポチって、だらだらと読んで終わってしまいました。

 

毎度毎度そんな調子で連休前の高い志なんか連休に入った途端にすっかり忘れてしまいますな。

まあ、いいんです。

 

 

さて、「本の林」では冗長すぎて本の紹介にならなくなっちゃうと思ったので書かなかったことを徒然に書いていきたいと思います。

 

まずは、鈴木健さんって会社の社長やりながらこんなに学術的な活動ができるってすごいですよね。

日本では特に職業研究者やるよりもこんな形で活動したほうがきっとクリエイティブではっとさせられるような業績が出ると思うんですよね。

もっとこういう研究者が出てきて一般書の形で知見を発信してくれると私みたいな物好きが楽しくなるんだけどなぁ。

 

 

で、この本を読んで数年前に見た社会現象を物理学のように扱って知見を得るような研究分野があることを思い出しました。

最初に見てから面白そうだなと思ったっきりそのままにしていて、ちょっと前に掘り返そうと思ったのですが、その時はネットで検索してもうまく探し出せなくて断念していましたが、今回はうまく見つけ出せました。

 


www.youtube.com

 

人間社会の中でも自然現象と同じ数理的な法則が見つかるっていう話なんですけど、この分野は結構面白いと思うんですよね。

 

日本語の本として面白いものが出てくるのはもう少し先かもしれませんが、きっとこの領域は今後発展して面白い知見がどんどん出てくると思っています。

 

マクロで見たときの数理法則とそれを導くミクロな構成要素の性質の関係性について、社会現象と自然現象の間でどのような点に同一性 or 差異があるのか?とか、1つのマクロな数理法則を実現するミクロな構成要素の性質にはどのくらいの数理的なバリエーションがあるのか、なんかはぜひ結構知りたいところだったりします。

 

 

reCAPTCHAの話なんかも「なるほど」と思いました。

画像からそこに書かれた文字をタイプすることで、操作者が人間であることを証明しつつ、OCRでうまく読み取れなかった文字を人間に読んでもらうことでOCRの識別率をアップするという裏の狙いを達成するというのは自然界で動植物たちが利用し利用されながら共生する関係と似ていて面白いなと思いました。

もしかすると前に読んだ本でも同じ話はあったのかもしれませんが、改めて社会の仕組みを知った気がします。

 

 

社会契約論のところで思ったことは、その時代における不可逆性の範囲と不可逆性に対する態度がその時代の社会(=価値観)を決めるんだろうな、ということ。

ここでは「不可逆性=取り返しのつかなさ」なのですが、その最たるものが「死」です。

いまの社会は「命が最も尊い」という考え方ですが、裏を返せば死に対してとても不寛容な(=不可逆性に対して厳しい)社会と言えると思います。

これは歴史的に共通して人類が持っていた考え方というわけではないようなので、現代の特徴的な一つの思想だと思います。

 

もし「なめらかな社会とその敵」がターゲットにする300年後の世界で科学技術の進歩によってなんらかの形で不死が実現できていた(=不可逆性の範囲が縮小した)とすると、いまの「命が最も尊い」という価値観が覆ってしまっている可能性があるのではないか、と思うのです。

そうなった場合、人の生き方はもっともっと根底の部分から覆ってしまっている可能性があって、そういう意味で後半の議論はちょっと物足りなさを感じてしまいました。(この本の前にサピエンス全史というとてつもなく大きなスケールの本を読んでしまっているからかもしれません)

 

まあ、そんなこと言いだしたら本として話がまとまらなくなるでしょうから仕方ないのだと思いますけど 笑

 

 

 

あとは、やっぱり所有(私有)という概念は現代社会の基盤的な考え方なんだよな、と再確認したこと。

この概念が無効化されると社会構造や一人ひとりの生き方・人生観はどんな風にひっくり返るんでしょうね。

大昔の人類は私有・所有という概念を抜きに生活していたのであって、私有・所有という考え方は人間社会を形成するなかで必須の考え方ではないのですが、いまの時代ではどうにも動かしがたい概念で、私たちの中の奥深くまでしみ込んでしまっています。

 

私有・所有の概念がなくなると貨幣なんかもなくなる可能性があるし、自分の職業はこれ、みたいな感覚なんかもなくなるんだろうなぁ、なんて思ったります。

というか、「自分」に対する今みたいな(ある意味、異常なまでの)愛着すらなくなる気がしますね。

 

 

 

今回もグダグダとまとまりもなく書き散らかしました。

書き散らかして終えられるってやっぱりいいですね。

頭の中のもやもやとした思考の断片をこうやって断片のまま書くだけでも少しだけ思考が整理されて、断片の粒がひとまわりだけ大きくなる感じがしてよいです。

 

ここ数年はいまのお仕事に専念していたので、もう一回こっち方面に頭を向けて見分を広めていくと新しく見えてくる景色があるかもしれませんね。