忘れないうち書いてみた
更新です。
今回の話題はこれ↓
「『モノには限度』の感覚を失うとおかしくなるのではないか、説」
はい。
さっき記事を書いたら、最近稀なほどブログを更新できる精神的なコンディションになったのでそのままの勢いで連投します。(さっきの記事書くとき、あまりにも久々すぎてこのブログ書くときのいつもの型を忘れてたし、リハビリを兼ねまして 笑)
まずは元ネタ。
この土日は久々に一人で家にいたので、最近ご無沙汰だったマル激を連続視聴。
一時期は更新を心待ちにしていた程でしたが、ある時から若干食傷気味になり、生活パターンの変化も手伝ってマル激から遠ざかっていました。
で、久々に観たのですが、んー、宮台さんの発言は私がマル激から遠ざかる前の発言とあまり変化していないなぁという印象。
変化したところといえば、「加速主義者」「安倍・トランプ支持」という発言くらいでしょうか?
相変わらず宮台さんはマックス・ウェーバーについて語り、神保さんはメディアの責任を問う感じ。
それだけ普遍的なテーマであり、一貫した考え・主張ということなのでしょうけど。
ま、それはそれとして、マル激を観ながら直近の(と言ってもだいぶ前ですが)私が書いたコンビニおでんの記事、最近私の周りで起きた出来事なんかを振り返って思ったことをひとつ。
何事も『モノには限度ってものがある』ってことに意識が行かなくなると破綻が近いんだろうな、ってこと。
例えば、労働市場では「お前の代わりはいくらでもいる」とか、政治では「安倍永久総理」とか。
なにかのリソースが潤沢にあることを前提としてはじめて成り立つ仕組みが一定期間続くと、仕組みの前提条件となっているリソースの有限性に意識が行かなくなる。
物事の有限性に意識が行かなくなった途端、有限な「何か」をものすごい勢いで食い尽くしてしまう。
もうすでに「時代の変化」という一言で、先祖代々積み上げてきた色々なモノをだいぶ食い尽くしたあとだとは思うけど。
それが宮台さんの言う「プラットフォームの崩壊」という言葉と重なるのかな。
この国の人口はそれなりに多いけれども無限ではないし、何をやっても政治が未来永劫国民に信頼されるわけではない。
経済活動に必要な資源も有限であり、地球環境は人間の活動で変化する。
こんなことは口では言えるし、こうやって文字にも出来るけど、果たしてどこまで実生活に落とし込めているかというと、甚だ自信がない。
たぶん、少子化について語っている政治家だって、(特に今の政治家の過半数は)私の感覚と大差ないだろうと思う。
このあらゆるモノについてまわる有限性に関する意識(というか肌感覚)はご先祖様の方が遥かに持っていたんじゃないかなぁ。(多分、有限性が個人レベルで十分意識できるくらい厳しい環境だったってことだと思うけど)
今の時代って、ある意味では中世の暗黒時代のような退行現象なのかもしれないな、なんて思ったり。