いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

出来損ないだが書いてみた

更新です。

 

今回の話題はこれ↓

「私が警戒したいと思っている言葉」

 

はい。

先週のマル激トークオンディマンドで紹介されていた映画を観ましたよ。

 

しかも2本も 笑

 

ペンタゴン・ペーパーズ」と「ザ・シークレットマン

 

この2本を連続して観ると、国家機密だったベトナム戦争の調査報告書をニューヨーク・タイムズ紙がすっぱ抜いてからウォーターゲート事件に至るまでを連続して追うことができます。

 

ただ、予習が必要でしたね。

 

特に「ペンタゴン・ペーパーズ」は、背景知識がなかったので途中で置いてけぼりを食らってしまいました。

 

あと、やや展開が急というか、どうにも苦しい部分があったようにも思いました。

クライマックスで、ワシントン・ポストの社主のキャサリン・グラハムが決断するいちばん大事なシーンも、なんとなく入り込めなかったんですよねぇ。

 

これは観客の知識に頼る範囲が大きい映画でした。

 

神保さんと宮台さんが賞賛していたので、期待していたのですが、映画素人でこの事件もよく知らない私にはイマイチ。

 

背景知識があればそれなりに楽しめたんだろうなぁ。

 

 

それに比べて「ザ・シークレットマン」は迫力があって良かった!

 

でも、もしかしたら、この映画のときは、観る前にウィキペディアなんかで予習していたのが良かったのかもしれません。

 

ウォーターゲート事件ニクソン大統領が辞任するまで、「ディープ・スロート」がどのような状況に置かれ、どのように行動したのかを描いています。

 

実際の動機がどの程度この映画で描かれたものと近いのかはわかりませんが(現実だとするとあまりに「キレイ」過ぎるので 笑)、この映画を通じて「政府と独立した組織」とはどのような存在なのか、を教えてもらえた気がします。

 

のちに「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれることになる、司法長官を含む3人の役職の辞任・解任劇や、ホワイトハウスに対するFBIやCIAの抵抗が実話であるということに、ただただ驚くし、官僚としての矜持を見せたアメリカのエリート官僚を尊敬します。

 

ルールは執行されて初めてルールになるし、憲法だって、それに従う人の行動が国の権力バランスを実際に変える(あるいは、変えさせない)ことによって、初めて憲法になる。

 

それを誰の目にも届かない闇の中でも実行できる人を各組織の最上層に据えることが、かつてのアメリカではできていた、ということでしょう。

 

これがどれだけすごいことか。

そして、この制度がどれだけ脆いものかも同時に考えさせられました。

 

このガラス細工のような政治制度を使って、(たとえ一時的であったとしても)実際に社会を回していたという歴史(そして、ニクソン大統領によるこの制度への挑戦を退けたという歴史)は、本当に誇らしいことだと思います。

 

あ、でもこれは言外に「日本はダメだ」ということを言いたいわけじゃないです。

 

政治制度が未整備なのに、それなりに社会を回してしまっているのも、むしろ魔術のような不思議なすごさがあると思います 笑

 

 

 

さて、ここからが本題です。(前フリが長い!)

 

上の映画にも通ずるものがあると思いますが、ここ10年くらいの国内外政治やネットの書き込みなどで、危ない言葉が何なのか、少しずつわかってきた気がするんです。

 

その最たるものが、

 

「真実」「事実」「本質」「真理」の類と、

「正義」「善」「良い」「正しい」の類。

 

なぜかというと、最初のグループは、ある事柄をこれらの言葉で評価した場合、その評価の妥当性を証明することができないから。

 

「〇〇は事実であります」という主張(某総理大臣がよく使う言い回しですが。)がわかりやすい例だと思います。

 

この主張が出てきた瞬間、万人が納得する証明も反証もできなくなります。

突き詰めようとすると、「我思う故に我あり」的な、デカルトの世界に突入しそうです。笑

 

もし「〇〇は事実であります」という主張が、証明不可能であるならば、それはもはや「主観的な価値軸」に基づく偏見です。

 

(あと、「本質」って言葉も、無体な要求をする「ロジカルおじさん」が好みそうな言葉だと思うんですよ。)

 

私はそう考えていますので、最初のグループの言葉は、発信するときも、受信するときも注意が必要な言葉だと思っています。

 

 

二つ目のグループの言葉は、立場や状況、時代背景によって変わり得るから。

 

これらの言葉は、「かくかくしかじかの状況に置かれた誰某は、このような条件に限れば〇〇を良いと考える」ということは言えても、無条件に「〇〇は良い」とは言えない。

 

まぁ、言い張ることは可能だが、客観的な証拠を突きつけて相手を論理的に説き伏せて、心の底から納得させることは望めない。相手の共感に期待するしかない。

 

 

誰か(あるいは自分)の主張にこれらのグループに類する言葉が前提条件なく出てきた場合、そこがその主張を構成するロジックの終着点であり、その先の論理(のような言葉の羅列)では、理性的な説得はしておらず、感情的な説得を試みていることになると思います。

 

 

私も最近は、特に「正義」「善」「良い」「正しい」という言葉をこのブログで使うとき、意識的に「価値軸」とか「価値基準」という言葉とセットで使うようにしています。(「良い」と「正しい」はあまりにも日常語過ぎて貫徹できていませんが 笑)

 

その理由は、これらの言葉を使う評価が常に「主観的」であることを自分に言い聞かせるため。

 

私は、なるべく「偏りたくない」とは思っていますが、「偏っていること」を嫌ってはいませんし、自分が「偏っていない」とも思っていません。

 

 

私が一番避けたいことは、「自分の偏りを自覚していない状態」に陥ることなのです。