更新です。
今回の話題はこれ↓
「本物であることを確かめる必要はあるのだろうか?」
はい。
できれば、「勝手に譲るな!」という言葉がでなければよかったなぁ。
いや、きっとそういう場面は面白みがないから表に出てこないだけで、きっとそういう「パーフェクトな場面」も日常的にあるはずなんだけど。
でさ、こういう話になると議論になるのが、優しさが「本物」か「偽善」かということ。
実際、私も昔は「本物志向」でしたので、そういう潔癖な考え方をしていたのですが、最近は、「偽善でも良いじゃないの。一番困っている人が助かれば。」と思うようになりました。
偽善であっても善は善。
たとえ「偽善者」だとしても、常に「偽善者」でいられるだけの心のゆとりを持っていればいいのではないでしょうか。(それがなかなか難しいのだけれども。)
上の記事の話なんかは、一度きりの持続しない事柄なんだから、「その優しさは本物か」なんて本当にどうでも良くてさ。
しかも、結果的に実害があった人はいなかったわけで。
なら、OKじゃない。
善人をアピールしていようが、ただ起こったことをツイートしただけであろうが、文句を言ってきた人を暗に批判していようが、その意図を知ることに何の意味もない。
そうだろ?
と、記事を読みながら昔の自分に声を掛けてみた。
追伸:ちなみに、私が記事のような状況に遭遇したら、たぶん7:3の割合で譲ら(れ?)ずに少し後悔すると思われます。うむ、偽善者としてまだまだ修行が足りんな。