更新です。
今回の話題はこれ↓
「論理学ってなぜ学校教育にほとんどないんだろう?」
はい。
「発達障害」についての記事を読んでぐるっと思考が回って行き着いたテーマです。
「発達障害を知ろう」みたいな記事って見かけることが多くなってきました。
本も出ていたりして、ある意味流行り言葉みたいになっています。
まぁ、他人や自分のこと(私も発達障害なんじゃないかなぁ…となんとなく思っていたりします。)を知る機会が増えたという意味で良いことなのだとは思うのですが、ある意味、排他性が強まっているから「発達障害」って言葉が取り上げられているようにも思うんですよね。
しかもこれ、うっかりすると、「発達障害」という言葉の定義が「普通の人」の定義を暗示しているように聞こえてしまうので、排除する空気を強化してしまうようにも思うんですよねぇ。
例えば、
「発達障害」 → 「落ち着きがない、すぐに感情的になる、社交性がない、etc.」
としたら、(少なくとも私は)無意識的に
「普通の人」 → 「落ち着きがある、あまり感情的にならない、社交性がある」
を連想してしまう。
でも、この2つの命題は表と裏の関係なので、最初の命題が真だとしても、下の命題は真とは限らないじゃないですか。
だとしても、なぜだかある「語り」を見聞きするとその裏を連想しがちなんですよねぇ。
これは怖いと思うんですよ。
こういう言葉の裏にある「言外の規定」というか、「暗示」というかが同調圧力とか排除の空気の一因になってるような気がするんですよね。
たぶん、私たちの先祖も、この手の落とし穴に散々引っかかったんだと思うんです。
だから「論理学」が大昔からあったんだと思うんですよね。
もうこれ以上、空論や空疎な言葉に騙されたり、踊らされないために。
これは、今だって同じだし、むしろ必要性が増している学問だと思うんです。
ってかさ、なんで基礎教育に論理学がないんだろう?
こんなにもみんなの人生で必ず使えるような「実学」は他にないような気がするんだけどなぁ。(とは言いつつ、私もマジメに勉強してませんが。。)
ちゃう?
言葉に騙されないための技術・教養として、形式化された体系があるならば、全員が勉強する機会を得た方が良いと思うんですよ。
そのくらい超重要な学問ですよ(たぶん)。
検索したら大前研一さんも言ってるみたいですね。
経済といい、論理学といい、なぜに大事な話が教育過程に入ってないのだろうか...
不思議だ。