音楽聴きつつ書いてみた
更新です。
今回の話題はこれ↓
「ニュートラル」
はい。
前回も載せましたがもう一度載せます。
いまさらですが、ハマりました。
これ、聴けば聴くほど痛烈ですね。
聴いていると、ドキッとさせられます。
まるで、ライブ会場で
「おい、これはお前のことを歌ってるんだよ。そこの、2階席の後ろにいるお前のことだよ。」
って指さされてるような感じ。
さて、ちょっとこの曲からも連想したことですが、最近、身近にいる人のある発言を聞いて考えたことをひとつ。
「べき論」っていうんですかね、なんだかそういうのが、ここ十年くらいで巷に(過剰に)広がって、みんなでみんなを縛り上げているような気がします。
これが「日常」になると本当に生きづらくなるので、今の状態に対する違和感だけは失わないようにしたいと常々思っています。
「べき論」ですが、自分のことは棚に上げて書きますと、これを他人に振りかざして断罪できるときって、当の本人は「自分こそがまともな感覚の持ち主だ」と心底から思っているときが多いと思うんですよね。
自分こそ中立、中道、ニュートラルだ、と。
この自負がないと、なかなか他人を無条件に非難することってできないと思うんですよ。
で、ですね。
この「ニュートラル」について真面目に考えると、一番近い状態って「無関心」なんじゃないかな?って思うんですよ。
物事の可否を判断しない状態。
何事にも、起きたなら起きた、起こらないなら起こらないで、そのまま通り過ぎていく。
無為自然っていうんでしょうかね。
世界中の人類全員が一生涯幸せに暮らす社会が実現した状態も、深刻な格差と差別が蔓延した、極端に不平等で理不尽な階層社会が実現した状態も、特に優劣をつけないっていうのがニュートラルじゃないかな。
核戦争が起ころうが、環境破壊が進もうが、自殺者が増えようが、いじめが増えようが、不倫しようが、何をしようが、そこに何の価値判断もしない。
この世界は物理法則が許す限り、と言うか、起こるものは起こる。(起こらないものは起こらない)
「だからなに?」
そういうのがニュートラルなんだと思う。
たぶん、そこを「原点」にしないと、自分が、周りが、どのくらい「極端に、異常なまでに偏向しているのか」が評価できないと思うのです。
「この社会が、個々人に対して、公私の場で、それぞれどの程度偏向することを求めているのか?」を測ることができないと思うのです。*1
そして、自分にとって、社会にとって、本当のところ、どの程度の偏向が必要なのかを判断できないと思うんです。
自分の、世間の「いま」が「原点」だと思った瞬間に、タガが外れる。
タガが外れれば、「べき論」で雁字搦めになってきっと自滅する。
だからさ、ラクにいこうよ。