今まで、本屋で読む(買う)本をスクリーニングするとき、「○○がするべき10のこと」や「○○力」というチャラい(偏見です。すみません。)タイトルを意識的に除外してきたんですよ。
そうすると、今回の本も必然的に除外されてきたんですね。
姜尚中さんという人自体はメディアによく出ている人なので顔と名前は知ってはいたんですが、どういう「語り」をする人なのかはあんまりよくわかってなかったんですね。
で、youtubeで対談番組を物色していたらたまたま姜尚中さんの語りに当たったんですよ。
そしたら、とても静かな口調で語っていて、「あ、いいなぁ」って思ったんですよ。
それで買ってみました。
さて、この本は『「悪」とは何か?』という問いについて考えるものです。
すこしドキッとさせられる本でした。
トーマス・マンという人の『ファウストゥス博士』という作品を引用して「悪」について語っている部分をご紹介。
真理とは体験と感情ではないだろうか?君を高揚させるもの、君の力と権力と支配の感情を増大させるもの、ええい、そうとも、それが真理なのだ、—たとえそれが道徳の知見から見れば十倍も嘘だとしても。力を高揚させる性質の非真理はあらゆる不毛な道徳的真理に比肩すると僕は主張する。創造的な、天才を与える病気、高く馬上に打跨って障害を飛び越え、不適な陶酔のうちに岩から岩へと疾駆する病気は、足をひきずりながら歩いて行く健康より、生にとって千倍も好ましいと僕は主張する。病者からは病的なものしか生れ得ないという議論ほどの愚論を僕は聞いたことがない。生は気難かしいものではない、道徳のことなど気にかけはしないのだ。生は病気の大胆な産物を掴みとり、貪り啖い、消化する、そしてそれをわがものとして血肉化するや否や、それは健康に化する。
(『ファウストゥス博士』)
この「あいつ」の台詞にある高揚感は、先のピンキーが人を殺したときに感じた「じぶんの力に対する畏敬の念が彼のなかにあふれた」という高揚感に通じるものがあります。
(中略)
悪魔に魂を売った人間は、「自分を高揚させるもの」のためには、それこそどんな手段をも選ばない。レーヴァーキューンは、その悪の病に前進を冒されていたということでしょう。この「病気」が、壮大な規模で地上に立ち現れたときに何になるか。
トーマス・マンは、その地上の病をナチズムに見ました。マン自身も書いていますが、この『ファウストゥス博士』は、間違いなくナチズムの寓意になっています。
最近、私は「自分を活性化させる」というか、「何かに突き動かされる状態」が、自分の活動をより良くするために必要だと「確信」に近い感覚をもっているんです。
それをベースにしてこのブログの記事のテーマ設定もしてますし、たぶん、正解ではないとしても、少しは本質にかすっていると思っているんですよ。
でも、もしかしたら、私の今の考えや好ましいと感じていること、あるいはこのブログに書き付けているものは、10年後、20年後、さらにもっと先の将来のある時点で振り返ると、「巨悪の種」になっているかもしれない。。
そして、今、このタイミングで私が『「自分を活性化させる」とか「何かに突き動かされる状態」が大事』という「考え」に至っているのも、今の時代に対する非常に凡庸な、というか、ありふれた応答なのかもしれない。
(もし、こういう考えが多くの人に共感されるのであれば、ありふれているんでしょうね。)
もう一節ご紹介。
今度はニーチェを引いたところ。
苦しみそのものが彼(=人間)の問題であったのではない。むしろ「何のために苦しむか」という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった。
ニーチェのこの言葉は、私たちが生きる現代を映し出す名言だと思います。
(中略)
苦悩の意味がつかめない—。その結果として、私たちは生きている意味にも確かなことを求めることができなくなっている気がします。
ニーチェの言葉、すごい切れ味。
「人間は仲間に包摂されていない状態では非常に弱い存在だ」というのは宮台真司さんの言葉ですが、たぶん意味するところは重なっているんでしょうね。
「最近の若者はヘタレだ」という方が居られます。(私もこれまで数名の方から「お叱り」をいただきました 苦笑)
「子どもを強く育てる方法」的な教育本も売られています。
もし、昔の若者が「強かった」のであれば、それは「何のために苦しむのか」がはっきりしていたんだと思う。
単なる開き直りかもしれませんが、恐らく、今と昔の違いはそれだけなんじゃないかな?
ここからさらに話を進めたいところですが、内容的に危うくなってくるのでここらで留めておきましょう。