いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

眠気とともに書いてみた。

更新です。

今回の話題はこれ↓
「上司に可愛がられること」

はい。
さっき見つけた記事です。

そうなんですね。
私はこういうお説教を受ける側の人間ですので、ふむふむ、と思いながら読みました。

組織としては(それが大きい単位だろうが小さい単位だろうが)私に創造性を求めてない、ってのは薄々感づいてます。
そういうものじゃなくて、普通のことを普通にできるようになれ、ってことですよね。

もっと言うと、私が「普通のことを普通にできる人である」と『認知されるまで』普通のことを普通にやれ、ってことですよね。

きっと、この点に私の裁量は微塵もない。

これは私の周りにいる方々が決めることで、私にできることは粛々と普通のことをするだけなのだと思う。

まぁ、実際できてるかはよくわからないが。


で、この記事の中の「上司に可愛がられること」について。

これに関してはお説教を受ける側なりの確信めいたものがありまして、ですね。

上司に可愛がられるためには、「上司の『目の前で』みるみる成長すること」がもっとも有効なのではないか、と。

そのココロは、上司に「俺があいつを育てたんだ」と周りに対して自慢させてあげられるようにする、ということ。

何を「成長」と見なすかは難しいですが、少なくとも、上司に注意されたことは自分が納得できない、あるいは、指摘の重要性が理解できなくとも「何かの形で」次の仕事に必ず反映させる、ということをひたすら繰り返すことで、上司の目には「成長」に見えるのではないか、と。

やっぱり、上司も人間ですから、自分の言動が確かに影響すると思える人にアドバイスしたくなるでしょう。

どんな人でも「自分の意見が反映された感」って大事です。

(民主主義って本来はこの気持ちを利用したものの決め方ですよね。)

あと、最近なんとなく感じているのは、人って自立したいと願っている人にこそ手を貸してあげたくなるものなんだな、ということ。

ただ、上司の言うことをなんでもその通りにきく人は、(その姿勢にも依るが)あまり可愛がられない。可愛がられるというより、きっと都合よく使われるんだろうなぁ、と。


で、もう一つ。

私の成長を明らかに喜んでいない上司は「形式的には」上司かもしれないが、「ライバル」とみなして差し支えないのではなかろうか、ということ。

形式的な上司は選べないが、その人を「上司」として認めるかどうかはこちらに決定権がある。(心の中の問題です。私自身がこんな状況に陥ったら、表には本人にも周囲にも気づかれない程度にしか出さないと思います。パフォーマンスを3%ほど落とすとか。「うっかり」が1回多いとか。)

そんなときは、早いところ「上司」を探した方が良さそうです。(幸いにも、私自身の今の上司は素晴らしく「上司」です。上司と、私の幸運に感謝です。一応、念のため。)


以上、お説教を受ける側の言い分でした。