更新です。
今回の話題はこれ↓
「現代の昆虫少年たち」
はい。
今朝唐突に思いついたのですが、現代の子どもたちの中にも、昆虫少年は結構いるのではないでしょうか?
別に田舎の子どもであろうが、大都会東京のコンクリートジャングルで生活する子どもであろうが、そんなこととはまったく無関係にいるように思うのです。
むしろ、昔よりその数は増えているのかもしれません。
ただ、かつて昆虫少年だった方々は、現代の昆虫少年たちの姿を見ることはできないでしょう。
いま思えば、私くらいの世代が、現代版の昆虫少年のはしりだったように思います。
かく言う私もしっかり現代版昆虫少年でしたし。
それは「ポケモン」です。
私がポケモンに初めて触れてから20年くらい経ってようやく気付いた気がします。(大いなる勘違いである可能性もありますが)
なんでポケモンがこれだけ長い間続いているのか。
きっと、かつての(そして本物の)昆虫少年と同じ感情を刺激されるからではないでしょうか?
そしてその感情は今も昔も変わらず少年たちの中に存在しているからなのではないでしょうか?
多様性、捕獲、飼育、標本、その種に纏わるストーリーなどなど...
そこらへんがまさに昆虫少年の心を鷲掴みにするポイントで、ポケモンが再現するポイントではないでしょうか?
昆虫少年を引退して久しい私、本当に今更ながら気付きました。
ただ、そうなるとやはり気になるのは「アーキテクチャによる拘束」。
ローレンスレッシグ教授が提唱したんでしたっけ?
子どもの遊びに人工物が(というか、今や人工の世界観が)介入すればするほど、「アーキテクチャによって可能な行動が制限されていること」が当たり前になってしまうのではないか、と。
「最近の若いモンは...」という定型文は、だいぶ歴史があるようですが、近年のそれは「アーキテクチャによって制限されることが当たり前」という感覚の有無が大きいのではないでしょうか?
いや、むしろここら辺の差はもう解消されているのかな?
実際、今は何でもかんでも「しょっちゅう間違えちゃう人なんかに頼らず、システム(アーキテクチャ)に任せましょ」という方向に向かって爆進中ですしね。
でも、私、この方向性は違うような気がするんですよね。
だって、この究極形は「人って、この世界に必要ありませんね。ただのお荷物ですね。」っていう世界なんですから。
時に判断を間違えてしまう人が、それでも最善を尽くして、懸命に、命を賭けて判断する。
それに対して、他の人が反応する、反応してくれる。
ここに、きっとこの一点に、人が存在意義を感じるのでしょう?
だったら、今進んでいる方向は、人が命を賭けて判断する事柄を片っ端から奪ってシステムに丸投げすることなんですから。
まぁ、いまもっているタスクを全部システムに奪われちゃったら別のタスクを自分に課すのでしょうけど、そうするとますます生物学的には些細な、殆ど無意味な事にリアルを感じて、命を賭けるようになるんでしょうね。
きっと今でも他の生き物から見れば、ヒトって本当にくだらない生き物に見えるのでしょうね。
昆虫に笑われちゃうなぁ。