いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

ぼんやり何やら考えた

更新します。

 

今日は、前回の内容からの連想ゲーム。

 

「道徳」

 

道徳をwikipediaで引いてみると

 

人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪善悪規範。個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。社会性とも関わる。

 

だって。

 

これを読んで思うのは、「道徳って良くできた装置だよなぁ」ってこと。

同じような正邪・善悪の規範を多くの人が共有している状態を作ることで、お互いがお互いに、そして、新規にやってきた人(生まれてきた人)個人の言動を制約・制御する。これだけ多くの人がいる中で起こりうるであろう予測不能な言動を少ない労力で押さえ込むとても効果的な装置です。

もともとは自律的にできた装置なのだろうけども、効果は絶大です。

 

そう考えると、道徳教育って(というか、教育そのものが)、その装置を人為的に作ってやろうって試みですよね。それが良いとか悪いとかじゃなくて、そういうものですよね。

 

そして、今私たちが共有している道徳って、そんな人工的な(つまり、明確な意図をもった)操作の影響を確実に、そして、大きく受けていると考えた方が自然です。

そこには、「道理に適わないこと」が「正しいこと」とされている場合もあると思います。きっと、そういう場合に「葛藤」が生まれたりするんじゃないかな、と思うのです。

 

私は「道理に適う」と「正しい」は別物だと考えています。

私の言う「道理」は、もっとも抵抗の少ない、ということ。向かい風になる方向に走るより、真逆を向いて追い風になる方向に走った方が抵抗が少ない。だから、「道理に適う」のは後者だ、という風に。

 

 

勝手なイメージですが、日本っていう場所に住んでいた人達って、もともとは「道理に適う」ことを良しとしていたんじゃないかなぁ、と思っています。それは、地震や台風といった自然の脅威に常に晒されている環境下で生きてきたから。

 

自然は人知を越えており、如何ともし難いので、受け入れざるを得ない。ならば、そんな自然を丸ごと受け入れて生きていこう。そのためには、自然に逆らうよりも、自然に従うべきなのだ、というような感じ?

 

たぶん、日本に限らず、アジア地域に住む人ってそういう志向を根底にもっていたんじゃないかなぁ。だから、昔から物事を動的に捉える視点を持っていたんじゃないか、と思うのです。

 

西洋学問としての自然科学は、最近になってようやく「動的平衡状態」とか「ダイナミクス」といった視点で物事を捉え始めるようになってきた、という印象を持っています。私がベルタランフィの『一般システム理論』という本を読んだときに、まず頭に浮かんだのは、なぜか『方丈記』の冒頭部分でした(そのときは、題名すら思い出せないほどあやふやな記憶でしたが 笑)。

 

行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかも もと(本)の水にあらず。淀(よど)みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。 ——原文『方丈記』全巻より

 

最近では、『動的平衡』という本がヒットした福岡伸一という方もおられます。きっと、西洋学問としての自然科学では、ここ100年やそこらで生まれた比較的新しい概念なのでしょうが、同じようなことは日本で少なくとも800年くらい前には、体感しており、頭と体の両方で理解できていたことなんじゃないのかな、と思うのです。

 

 

話が逸れすぎました。

 

つまり、道徳における「正しさ」はとても人工的なものである、と考えておいた方がよいのではないか?ということです。道徳は人が作った「世界観」の塊で、その判断基準は自然の摂理と真っ向から対立する場合がある。

 

別に、「だからダメだ。道徳なんて捨てちまえ!」なんて言いたいわけではありません(実際、道徳をもっていることが、「人の人らしさ」の一因でしょうし)。ただ、道徳的な「正しさ」を(私の言う)「道理」と同義語として認識してしまうと、苦しむんじゃないかなぁ、と思うのです。

 

ただ、それだけです。