いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

ESの目的と評価についての一考

夜にこそこそ更新です。

 

今日は、たった今ひらめいたこちらの話題にしましょう。

 

就活でのエントリーシート(ES)について。

 

実生活において、どうにも周りが騒がしいので私もなんだか考えてしまいます。

 

さて、私のお師匠さんが常々おっしゃっている言葉から始めましょう。

 

「ただ仕事を与えられる人でいたいならそのままでもいい。だが、仕事を与える人になりたいなら、文書でコミュニケーションできるように努力しろ。」

 

この言葉自体は、私が今作りましたけど、だいたい同じような内容をことある毎に学生に言い聞かせています。

 

 

これはまた別件なのですが、とあるところでこんな話を聴きました。

 

「裁判官や弁護士や検察の人達は、法律を読むことはできても作ることはできない。社会的な問題ではなく、技術的にできない。それは、ちょうど日本人が英語を読むことはできても書くことはできないのと同じように。」

 

法律の文言は、高度に専門化した特殊な文法で書かれていて、もはや一般人ではその意味を正確に把握することはできないそうです。

 

そして、法曹界にいる人であっても読むのに精一杯で、法律を書くことができるのは、ほどんど、内閣法制局にいる人だけだそうです。

 

このごく一部の人達は、法律文の句読点の位置を変えるだけで、その法律の構造と機能を決めてしまう。

たった数文字、句読点の位置をずらすことで、何処に特権を与えて、どこから特権を奪うかを決めてしまうそうな。

 

 

まぁ、これは極端な例ですが、ここから非常に重要なことが学べると思います。

 

それは、自分が作成する社会的効力のある文書は、徹頭徹尾、「人工物」あるいは「意識的」であることが理想である、ということ。そこに、作成者の意図しない意味合い(先の言葉に対応させるならば「自然物」あるいは「無意識的」である部分)が含まれることは、トラブルを招きこそすれラッキーを生むことはまずないでしょう。

 

なぜなら、こういうことです。

 

もし、作成者の意図しない意味合いが含まれた文書があったとする。しかし、文書の作成者は伝えたい意味合いを明確に持って文書を作成する筈なので(ここも重要な部分ですが)、文書に作成者の意図しない意味合いが含まれていたとしたら、それは、作成者の不手際によって未定義の言葉の使用や、修飾ー被修飾関係が不明瞭な文の使用があったことを意味します。

 

これは、文書の受取人に解釈の裁量を任せることと同義です。さて、文書の裁量が受取人に渡った場合、どうなるか?当たり前ですが、受取人が自分に都合の良い解釈でその文書を理解しようとします。これが、たとえ作成者の本来の意図を推定できたとしても、受取人に都合の悪い意味合いならば、積極的に誤読して理解しようとします。

 

これは、当たり前のことです。これによって争いが生じたのであれば、その原因は文書の作成者にあります。

 

 

だから、「文書を書く」というのは極めて慎重に、多大な労力を必要とする行為なのです。これは、先日の「炎上」についての記事で書いた内容ととても似た性格のものだと思います。

 

そうしたことを考えると、ESはこういった社会における文書でのコミュニケーションの最初の1歩なのだと考えることができます。(エラそうに書いてますが、私まだ学生です。すみません)

 

私は、会社が採用試験の(おおよそ)第一関門として、ESを課す目的は、次のような事だと推測します。

 

1.日本語として意味の通る文章を書けるかを試す。

2.設問に対して答えているかを試す。

3.納得的な(全体を通して矛盾のない)ストーリーを構築できるかを試す。

4.受取人に誤読の余地を与えない文書を作れるかを試す。

 

大卒以上の就活生に対しては、(恐らくどの会社も)「2までクリアしていること」が最低条件でしょう。そして、4までクリアした人に対しては、優先的にコンタクトを取るはずです(たぶん)。

 

 

そして、ESでは、次のようなことを求める場合が多いです。

 

「自分の性格を表す行動や実体験を書け」

 

「性格」の部分は「オリジナリティ」だったり、「積極性」だったり色々な言葉が入ります。が、たいていは、それらを表す「行動」について書かせようとする。

 

これは、恐らく、「何をネタに持ってくるか?」「そのネタについてどのように書くのか?」「それがどのような結論に結びつくのか?」ということを通じて、作成者当人がどれだけ「意識的に」文書を書くかを試しているのだと想像します。

 

普通に考えて、ESを審査する人が就活生個々人のネタ自体もしくはストーリーにみじんも興味を持っていないはずです。さらに言うと、ネタに関してやストーリーに関して評価するなど、到底できない。膨大なESを前にして、いちいち悩まなくてはならなくなる。

 

となると、評価は中身ではなく、構造に対して与えられると考えるべきでしょう。

 

ESを審査する人は、(恐らく全員が)ESの作成者が提供するネタの種類や書かれた行動やその描き方からその人物像を推測するでしょう。

だから、ESの作成者は「審査する人がどのように推測するか」を推測して、書く必要があります。さらに言えば、ESの作成者は「自分が意図した人物像を審査する人に推測してもらえるように誘導する」ことができるのです(というか、そうする必要があるのです)。

 

文書の主導権は、ヘマをしない限り、最初から最後まで作成者にあります(その主導権を最大限に行使すると、全く別人格の自分だって文書の中に作ることができるのです。まぁ、そうするかしないかは置いておいて)。

 

そして、そこまで意識されたESは読んでわかるはずです。なぜなら、ESのどこを読んでも作成者に都合のよい、ただ唯一の読み方しかできないからです。

 

 

 

あ、眠くなったのでここら辺で終わります。

では。