朝も早くに更新です。
これを読みました。
「努力が報われる社会」は「諦めの先」にあると思った。 - 体調わる子の毒吐きブログ
このエントリ書いた人の引用先を引用すべきかもしれませんが、ちょっと一言 (ちなみに、全ては読んでいませんが) 。
うーん。
こういうの、私も考えたことあります。
でも、上のエントリの引用先の人が書いた「努力すれば何とかなるという古い社会通念」っていうのはちょっと違うかな、と思います。
たぶん、「努力すれば何とかなる」という通念 (?) は比較的新しいものですよね。
調べたことないけど、古くても明治だろうし、ひょっとすると昭和の時代に出来たものでしょう。
その前は、(厳格ではなかったらしいけど) 身分がはっきりと分かれていた時代で、生まれで今の時代よりかなり多くのことが決まってしまっていた世の中だったはず。
そして、今までに努力が報われる社会って、一瞬でも実現したことがあったのでしょうか?
きっと、それを目指した時代はあったと思います。今もそうかもしれません。
でも、実現されたのかはちょっと疑問です (まぁ、判断基準、程度の問題なのでしょうが) 。
身分制度があった時代っていうのは (負のイメージが大きいですが)、上のエントリみたいな問題を感じる人はかなり少なかったはずと想像しています。
何せ、自分の将来の仕事は子供の頃から既に決まっているので (というか、すでに親の仕事を手伝っているので) 、自分探しみたいなことはしなくても済むし、一人前になった後のことだっておおよそ見当がつく。
それ以上を望むのは分不相応だから、そもそも努力が足りないと自分を責めることもしなくて済む。
だから、身分制度って、社会の構成員の大多数の精神衛生を保ちながら全体の仕事率を維持する (もしくは、緩やかに上昇させる) ための先人達の知恵なのではないか、とも思うのです。
明治になって、その制度 (精神的なセーフティネット) を一度壊してみようという試みがなされた。
そのかわりに、「努力すれば報われる社会」っていうのを理想に掲げて今までやってきたんじゃないのかなぁ?
でも、人生のスタート地点は人によって大きく違っていて、その中には「やっぱりどうすることもできない差もある」と (前々から知ってはいただろうが) みんなが言い始めた。そして、今は精神的なセーフティネットをみんなで共有していないのでとても苦しい。
だから、今の時代、精神的なセーフティネットは自分で作ろう。
その名も「諦念」。
みたいな流れかなぁ。