更新です。
今回の話題はこれ↓
「自分の中の冷酷さと向き合う」
はい。
私も、この記事は読みました。
この記事で紹介されている子は残念だったと思う。
残念だったと思うと同時に、「私がこの子の親の立場だったら、どう行動するのだろうか」とも思う。
どう行動するだろうか。
手術をすれば、機能面も美容面も「健常」になるのであれば、処置してもらうだろうとは思う。
では、もしそうではないならば、どう行動するだろうか。
私は、どういう形でその事実を引き受けるのだろうか。
どうなのだろう。
そんな事実が突然、目の前に現れたとして、自分の中のどの部分が行動になるのだろうか。私はその状況でも「まともな」人間なのだろうか。
もし仮に、先の事例と同じように行動したとして、その後、その事実そうやって「処理」した自分を、どのように受け止めるのだろうか。
そして、随分と時間が経った後、もしこういう記事をYahooのトップページで見つけたとしたら、
私はその記事をクリックできるだろうか。見なかったことにできるだろうか。
その記事に対する反応を読めるだろうか。読まないで済ますことができるだろうか。
それとも、もし仮に、そのとき「まともな人間」として振る舞えたとして、その後にどんな結末があるのだろうか。
その後の生活は、どこに向かって動くのだろうか。
ずっと「正しく」「強く」いられるのだろうか。
どうなのだろうか。
皆目見当がつかない。
「こんなことがあってはならない」「許せない」「理解できない」「憤りを感じる」「胸糞悪い」「信じられない」
これが上の記事に対する「まともな人間」の反応として「正解」なのは明らかで、面と向かって反応を求められたら私だって似たような「答案」を出すと思う。
でも、私がそういうことを本気で表明できないのは、これが「程度の問題」のようにも思うから。
発覚するのが生まれる前か後か、障害が軽いか重いか、社会的に「選択」が許される範囲内か範囲外か、当事者としてショックから立ち直れるか立ち直れないか......
一体、私はどこまでならば「まともな人間」であり続けられるのだろうか?
どこから「まともな人間」でなくなるのだろうか?
この問いは、
「どこまでなら「まともな人間」とみなしてもらえるか?」という問いと同じだろうか?
それとも違うのだろうか?
少なくとも、今の私がこの件を本気になって断罪するのは、あまりにナイーブな反応のように思った。