さて、ここのところお金に関する本を集中的に読んできた私ですが、「お金は相手に信頼の度合いを伝えるコミュニケーションツールだ」という私なりの暫定解を出せたからか、本屋に寄っても今までほどお金関係の本には惹かれなくなりました。
ひとまず、私の好奇心は満足したようです。
いま気になっているテーマは
「私(たち)の価値観はどこからやってきたものなのか?」
という話。
で、手に取ってみたのが新渡戸稲造の「武士道」。
ただ、原文を読むのはいくらなんでもつらすぎるので、「現代語訳」で。
読んだ感想。
なんか、よかったです。
これ読んでいてまず思ったのは、「私、実は保守系の右派なのではないか?」ということ。
ずっと「リベラル左派」と思っていたんですが、「武士道」に書かれた価値観は共感できるし、純粋に「素敵だ」と思う。
いや、これをもって右派とか左派ってのを見分けられるのかよくわかりませんけどね。
正直、右派とか左派って区別がよくわからんし。*1
それに、自分がこの規範に完全に従って行動できるか、と問われると無理ですし。
(現に、自分の考えをここでぺらぺら(?)と書いてますし、そのうえ二言だらけですしね。苦笑)
私のことはどうでもいいか。
で、読んでいる最中に思わずマークしたところをご紹介。
もし宗教というものが、マシュー・アーノルドの定義したように、「感情によって呼び起こされた道徳」にすぎないとすれば、武士道以上に宗教の列に入る資格を持った倫理体系は稀である。本居宣長は、この国民の無言の言葉を表現して詠じた。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
(大和心とは何かと人が尋ねたら、
朝日に照り映える山桜の花だと答えよう。)
(中略)
ヨーロッパ人がバラをほめたたえる気持ちを、私たちは共有できない。バラは、桜の単純さに欠けている。またバラが、甘美さの下に棘を隠していること、生に強く執着し時ならず散るよりはむしろ茎の上で朽ちることを選び、まるで死を嫌い恐れているようであること、派手な色彩、濃厚な香り——これらすべては桜と著しく違う性質である。
面白い例え話だなぁ、と。
ただ、私にとって上の記述はどことなく抵抗感もある。(ここらへんは左派(?)的な反応になるんだよなぁ)
武士道の影響は、今なお深く根ざして強いものがある。しかしそれは、意識されたものではなく、無言の感化であることはすでに述べた。人びとの心は、受け継いできたその観念に訴えられれば、理由もわからず反応する。
そう!まさに、 この「理由もわからず反応」してしまうときの「理由」が知りたいんです。
これは結構前から疑問だったんですが、私たちは他人の無礼な振る舞いに対して瞬間的に「無礼だ」と察知し、怒りの感情が湧いてくることがあります。そして場合によっては、「なぜその振る舞いが無礼なのか?」という問いに対してロジカルには即答できないことがあります。(少なくとも、私の場合は。)
でも、その振る舞いは私以外の多くの人にとって、やはり無礼であることは明らかなのです。
こんなとき、なぜ、私(たち)は無礼な振る舞いを直感的に「無礼だ」と判断できたのでしょうか?
私(たち)は一体何に突き動かされているのでしょうか?
うーん、是非とも知りたい。
そして、この本が「現代語訳 武士道」という本として「いいな」と思った理由が「解説」です。
「武士道」の本編は、新渡戸稲造の熱い文章(訳なので、実際には山本博文先生の文章ですが)でぐいぐいと読ませるのですが、山本先生の冷静な解説が読者(私)の熱くなった心をクールダウンさせてくれます。
そういう意味でとってもバランスが良いな、と思いました。
そんな解説から一節だけ引きましょう。
法に従って生きることを要求される世の中で、武士は時として法を破ることを迫られた。法を越える武士の法があったからである。新渡戸のように「負けるが勝ち」と言って済む社会ではなかったのである。新渡戸の武士道は、そうした葛藤のない上澄みの武士道であり、その意味で、超時代的な武士道であった。それは、彼が引用する印象的なエピソードが、ほとんど文学作品や歌舞伎によっていることにも示されている。
この本の解説全体を通して、「本の最後にある解説」の意義がよくわかる解説でした。