本の林:「里山資本主義」 藻谷 浩介・NHK広島取材班、角川新書
【連想する本】
■ 「マッキンゼーが予測する未来」 リチャード・ドッブス 他、ダイヤモンド社
■ 「日本辺境論」 内田 樹、新潮新書
この本は、私が1、2年前に買って序盤だけ読んだまま、何となくその先を読む気になれず積ん読していた本です。
ようやく読めました。
グローバル経済に対するアンチテーゼという位置づけで書かれた本、ということでしょうかね。
中身は面白いことがたくさん書かれていました。
日本国内での木質バイオマス発電の事例や、オーストリアの木材活用の事例など、前向きな提案や実践例が示されていて、少しだけ将来に光が見えた気がします。
この本に書いているように、日本はエネルギーを遠くの国からえっちらおっちらと運んできて湯水のように使いまくるようなことをしているでしょうから、工業製品で稼いだ外貨をそのまま産油国に垂れ流しているような状況なんでしょうね。
でも、少し見方を変えれば、実は、この国にある里山からエネルギーを持続可能な形で生産することができる。
そうすれば、地方でエネルギーを地産地消する自立した地域が作れるかもしれない。
他にも、農作物の自給自足や近所の人たちとの繋がりなどにも触れていて、都会の人が憧れる「理想の田舎暮らし」が描かれています。
ある意味、この本と対極をなす(?)本でした。
■ 「マッキンゼーが予測する未来」 リチャード・ドッブス 他、ダイヤモンド社
将来像としては、「マッキンゼーが・・・」の方がありそうな未来かなぁという気もしましたが、「里山資本主義」の将来像も一つの生き方として残っていくのかもしれませんね。
ちなみに私は「里山資本主義」の将来像に憧れます 笑
ちょっと引っかかるのは、「里山・・・」は私が好みそうな内容なのに、なぜか買ってすぐに読めなかったんですよね。。
今回も記事にするためにやや無理矢理読んだ感じ。面白いは面白いんですけどね。
うーん、なんとも不思議な本でした。
もしかしたら、本の内容に偏りを感じたのかもしれません。
実際、この本の後半はいかにグローバル経済の信奉者や「日本の将来は暗い」と信じている人が根拠のなく不安を煽っているか、ということに紙面が割かれていて、本のタイトルとのズレを感じました。(最終盤はとばし読みでした。。)
よくわかりませんが、今の経済状況(筆者は「マネー資本主義」と呼んでいる)を目の敵にしているような情念のこもった書き方で、特に終盤はあまり好きになれません。
その点を除くと面白い本でした。
この本の中にこんな一節があります。
高校で習ったのを覚えておられる方もいるだろう、「矛盾する二つの原理をかち合わせ、止揚することで、一次元高い段階に到達できる」という考え方を、弁証法という。この弁証法的思考を生んだのが、ドイツ語文化圏だ。そこに属するオーストリアで、マネー資本主義的な経済成長と同時に、里山資本主義的な自然エネルギーの利用が追求されていることは、むべなるかなと言える。対して日本人は、内田樹いうところの「辺境民」であるせいなのか、海外から輸入された単一の原理にかぶれやすい。
ここで触れられている、「内田樹いうところの「辺境民」である」というのは、もちろん、この本の内容を指していますよね。
■ 「日本辺境論」 内田 樹、新潮新書
手元にあるし確かに読んだはずなのですが、残念ながらあまり内容を覚えていない 笑
たしか、「日本は生まれてこの方ずっと辺境国なので、「辺境根性(負け犬根性的な?)」が染みついている」的な話だったような。。。(違ったらごめんなさい)
もう一つ、別の本を連想させる一節がこちら。
議論の中で、このような一幕もあった。人が山に入らなくなって荒れ果ててしまったマツタケ山を再生させようと活動する人たちを、広井教授は、短期の利益しか見ない今の経済から長いスパンでの成果を評価する時代への転換、その表れだと説いた。すると、マツタケ山再生研究会の空田有弘会長が「それはちょっと違う」と言いだした。 自分たちは、絶対に成果が出ないといけない、という態度をそもそもとっていないというのだ。
「成果が出れば良し、出なくても、それもまた良し。みんなで山に入って、山をきれいにして気持ち良かった。七〇代の者たちが頬を赤く染めるほど汗をかき、山仕事に打ち込むことの気持ちよさ、すがすがしさ。それがあればいいのです」
その話を聞くうち、広井教授はこれ以上ないという笑顔になり、「感銘を受けた」と応えた。「そうなんですよね。将来の成果のために今を位置づけるのが今の経済だが、それでは現在がいつまでたっても手段になってしまう。そこから抜け出さなくてはならないのですよね。」と、さらに論を展開させた。
これは、この本の内容と重なります。
「人間の条件」では、芸術がなぜ崇高なのか、ということを解説してくれています。
端的に言えば、「芸術は生み出したモノが手段にならないから。」という。
道具は、それを作るときは作ることが目的ですが、一度作ってしまえば、何かの目的を果たすための手段になる。
人間が行うほとんどの仕事は、それが完遂された瞬間に別の目的を果たすための手段に成り下がってしまうのです。
しかし、芸術だけは違う。
それはいつまでも「目的」であり続ける。だから尊いのだ、という風に昔の人は捉えたみたいです。
これは今の時代にはあまり意識されない価値観ですよね。
古代の「市民たち」の目には、現代が、「目的が手段に成り下がるような仕事しかしない「動物的で浅ましい人」で溢れかえっている」と映ると思われるので、卒倒するかもしれません 笑
たしかに、私たちも「私は一体なんのために働いているんだ?」と考えることもあります。
そういう疑問は押し殺さずに大事にした方が良いかもしれませんね。