更新です。
今回の話題はこれ↓
「「○○として」はなるべく背負わない方が楽」
はい。
最近思うことです。
ネットやテレビや新聞やその他諸々のメディアから普段の会話まで、他人(あるいは自分)を批判するときによく使われる切り口に「○○として、どうなの?」というものがあります。
「大人として」、「社会人として」、「企業人として」、「男として」、「女として」、「夫として」、「妻として」、「親として」、「子どもとして」はたまた「人として」。
実に応用範囲が広くて、その全ての用例でかなりの破壊力を持つ攻撃手法です。
これ、今の閉塞感を生む元凶だと思うんですけど、間違ってます?
自分の価値基準の中で、自分への戒めとして使う分には日常生活に適度な緊張感を生む良い薬だとは思うんですけれども、あまりにこの論法に浸るとがんじがらめになって身動きがとれなくなります。
特に価値基準が自分の中にない人は、ひとたびこの論法に浸かると一気に活性を失います。
たぶん、「○○として」という外から来た価値基準を自分のものと混同して、人生を壊してしまう人もいるんじゃかな。(私もそうなってしまう(しまっている)可能性は大いにある。)
自分に与えられた役割の全てを完璧に演じきる人なんていないのに。
だから、もう少し方の力抜いたらいいと思うんですよ。
自分から見て不完全な人が受け入れられて生きていける社会なら、自分だって受け入れられる可能性が高い。
そうなれば、もっと伸び伸びと活動できるじゃないですか。
だから、「○○として」という気負いは自分の信念を支えるいくつかだけにして、それを人に押しつけるのはやめましょうよ。
真人間が多過ぎません?
もう少しだけでもゆるーくいきませんかね?