いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

お出かけ先で書いてみた

更新です。

今回の話題はこれ↓
「人がやることに意味があるのでは?」

はい。

前々から書いているネタですが、最近流行りのAIなどなどについてひとつ。

ディープラーニングの成功がきっかけだと思うのですが、最近何かと話題が多い人工知能やら自動制御みたいな分野。

まぁ、何事も使い方次第なのでしょうが、この分野に対しては「嫌な感じだなぁ」と思うことが多いのです。

この分野の発展は、人間が自ら「判断」や「決断」という作業を放棄することに繋がりそうだから。

この作業は歴史的に沢山の人の血を代償にしながら、やっとの思いで獲得してきたはずの「自由」と直結してると思うのです。

そこを制御不能なアルゴリズムで外部化してしまうのは、今までも、そして、今でも善としている価値観と根本的な部分で衝突する行為で、この先の人類史の大問題に発展していきそうなものだと思うのです。


私は、この世界が究極的には「真に合理的な判断」に価値があるわけじゃない、と思っているのです。

そうではなくて、「真に合理的な判断」という「到達し得ない理想」に近づこうとする姿勢に価値があると。

目標があって、それに一歩でも近づくこと、近づこうと努力することが尊いことで、誰よりもその理想に近いと認められた人が尊敬される。

この1点にこそ意味があるのではないでしょうか?

いや、AIや自動制御の研究もその一環であることには間違いないのでしょうが、これは「普通の人」からこの尊い行いに取り組む機会を根こそぎ奪いかねないのです。

余計なお節介かもしれませんが、自動車の自動運転が普及すれば、切返さずに1発で駐車して恋人や友達から「運転上手いね!」って褒められる機会がなくなるわけです。

スポーツだって、公正なジャッジのためにビデオ判定が導入されて久しいですけど、この流れでいけばそのうち審判だって人じゃなくなりますよ。

そうなった時、私は興醒めてしまうと思います。何か微妙なプレーがあった瞬間、選手も監督・コーチも観客も視聴者も全員がアルゴリズムに判定を仰ぐわけでしょ?

「今のはどっちでしょう?」って。

急にアホらしくなりませんか?


書いてしまえば小さいことですけど、でもそういうことが大事じゃないですか、私たちって。

自分や人に裁量があるから、油断すると判断を間違える可能性が大いにありそうだから頑張って生きるわけじゃないですか。

少なくとも、私はそう思うのです。

この手の分野の研究は「普通の人」がひょんなことから立つ小さな「活躍の場」の最後の砦を崩してしまいそうですし、そこから徐々に人間の大事な部分を脅かしてしまいそうな気がします。

AI研究者の方々は高性能なAIを作ることそのものが目標ですので、否定はしませんが、使う側はどこまで使用を許すかの線引きが必要だと思いますし、使用には抑制的であった方が良いように思うのです。