何回か取り上げた話題です。
この話題に触れると、ここで書きたくなってしまいます。
国立大学で人文社会系を学べないようにするって、やっぱり正気の沙汰とは思えません。
少なくとも教育行政を司る人たちは、この国で生きている殆どの人たち、つまり「我々」に対して、文化を継承する役割を担うように宿命づけられた「仲間」であると認識していないように感じます。
彼らの決定だけを見ると、どうにも我々の仲間が行った決定には見えない。
もし我々を仲間だと認識しているなら、我々が心に抱く複雑な感情をどのようにしたら表現できるか、我々の操る言葉でどこまで奥深い表現が可能であるか、また、表現された言葉からどこまで感情を読み取り、発信者の視点に近づくことができるかを追究して、過去・現在・未来を含めて、この世にたった一人しかいない孤独な「我々」が互いに理解し合えるように手助けをしてくれる仲間が「我々の中から」一人でも多く登場することを当然期待すると思うのです。
もし我々を仲間だと認識しているなら、遠い過去から現在まで、我々の先祖が自然や他の世界からやってきた人たちとどう接してきたのか、どのような問題にぶつかり、何をどのように考えて、どこを目指して、どんな行動をとってきたのか、そんなことを深く知り、これから我々が向かうべき方向を指差してくれる仲間が「我々の中から」一人でも多く登場することを当然期待すると思うのです。
もし我々を仲間だと認識しているなら、今ある社会のルールがどのような経緯でできたのか、他にいかようにもできたはずなのに、何故、このルールでなければならなかったのか、そんなことを、どうにもすぐに忘れがちな我々に対してその都度教えてくれる頼もしい仲間が「我々の中から」一人でも多く登場することを当然期待すると思うのです。
もし我々を仲間だと認識しているなら、我々の先祖から見た国際社会がどのような風景であり、それに対してどのような考えを持って渡り合ってきたのか、追体験して国際社会で生きることについて肌感覚を持った仲間が「我々の中から」一人でも多く登場することを当然期待すると思うのです。
もし我々を仲間だと認識しているなら、そういうことをひっくるめて、次の世代の「我々」に、みっちりと叩き込んでくれる仲間が「我々の中から」一人でも多く登場することを当然期待すると思うのです。
「我々」の範囲はどこかの地区までかもしれませんし、どこかの地方までかもしれませんし、この国までかもしれませんし、人類全体かもしれません。
その守備範囲は、個々の人の興味や力量によるのでしょう。
それはそれでいいのです。
どのようなスケールでも、学べる土壌から頼もしい仲間が新たに登場してくれれば、それでいいのです。
「我々」が国の教育に期待すべきものって、あるいは、国がなすべき教育って、こういうものなのではないのでしょうか?
人文社会系を国立大学で放棄するってことは、もうこのような頼もしい仲間が「我々の中から」登場することを「国として」期待していないと表明していることにはなりませんか?
このような決定をした方々がもし「我々の仲間」であるならば、とても深い理由があると推察します。
その理由について、もっと広く、「我々」に説明しなければなりません。