更新です。
今日の話題はこれ↓
「信頼」ってなんだろう
はい。
ちょっと本題に入る前に、今日ふと気付いたことをひとつ。
私が最近の記事で「ゲーム」と称していたものって、実は「形式合理性」って用語とあまり変わらないんじゃないか?と気付いてしまいました。
つまり、私が「ゲームに参加する」と表現していたことは、実は「形式合理性を高める」ってことと同じ意味になるのかもしれない。
なんだか、私の感覚がちゃんと言葉として用意されていたことに気付いてちょっとスッキリ(?)しました(ま、これが本当かどうかはわかりませんが)。
さて、本題です。
「信頼」(とか、「信用」とか、「信じる」)って言葉は、(専門用語は別ですが)一般に使う分にはけっこう情緒的な言葉だと思います。
「君を信頼しているよ」とか、「あなたを信じてたのに!」とか。
人の感情を刺激する言葉であり、言葉そのものはポジティブな意味ですよね。
その情緒的な装いをいったん横に置いて考えてみた、っていうのが今回の企画。
例えば、上司や目上の人に「君を信頼しているよ」を言われた場合、私は何を期待されているのでしょうか?
まぁ、当たり前ですが、「上司やら目上の人の思うとおりに動くこと」を期待しているのでしょう。
例えば、彼氏が浮気をしていることを知った彼女が「あなたを信じてたのに!」と叫んだとすると(現実味があるかどうかはさておき)、彼氏は何を期待されていたのでしょうか?
これも当たり前ですが、「他の女に手を出さないこと」を期待されていたのでしょう。
まぁ、こう考えると「信頼される人」って、要は、信頼する側にとって「計算(予測)可能な行動をとる人」って意味になりますよね。
ただ、毎日就業時間に1時間仕事をサボる人が部下にいるとして、明日も1時間サボるであろうことは容易に予測ができるが、それをもって「信頼できるヤツだ」とは言わない。
ということは、「人に信頼される」ためには、信頼されたい相手にとって「都合の良い行動をとってくれると予測できる(勘定に入れられる)人」になればよい、ということになる。
逆に言うと、
『勘定に入れられない人』と認定される=信頼を失う
ということになる。
そうすると、「信頼」ってけっこう生々しい言葉だなぁ、って思うのです。
でも少なくとも誰かの「信頼」を獲得しないと生きていけませんから、その誰かさんには「勘定に入れられる」ほどに決まりきった(というと語弊がありますが)行動をとらなきゃいけない、ってことですよね。(当たり前の話なのですが、改めて。)
まぁ、でも、こういう小さな「信頼」が集まって秩序が生まれるんだろうなぁ。