今日の話題はこれ↓
『文化を売る』について
はい。
早くも近所のスーパーなんかでは節分だなんだって言い始めて、餅がワゴンに乗せられて安売りされてました。
察するに、もう世の中正月気分が抜けたのかな。
お祝いムードに水を差すこともなくなり、かつ、正月の話題を出すタイミングを逸しない今のうちに白状します。
最近は毎年のことになりつつあるのですが、正月が来てもあまり正月感がないんですよね。
「新年になった!」って感じがしない。
テレビやらなんやらと自分の気持ちのギャップにモヤモヤする度合いが年を追うごとに高まってるような気もしなくはない。(いや、それは気のせいかも)
でね、この気持ちが「歳をとるってのはそういうものだ」の一言で済む問題なら別にいいのですが(と言うか、つまらない話なのですが)、今回は、あえてその一言を使わずにこのモヤモヤについて考えてみましょう、という企画。
マルクス曰く、「モノを売る人は自分が売るモノについて、使用価値を見出していない、と言うか、自分では使用しないモノだから売るのだ。」だそうな(たぶん)。
まあ、なんというか、、当たり前だわな。
でもね、この当たり前のことを踏まえて「文化を売る」という言葉を見るとドキッとしません?
(抽象的ですが)文化を売るという行為は、その人が売っている文化について、「(ある意味で)無価値なもの、あるいは、自分には関係のないものとみなしていますよ」と表明しているに等しい行為ということになります。
これは、集団で何かを売る場合には、個人個人に相当な葛藤を生むことになるのではないでしょうか?
例えば、音楽が好きで好きでたまらなくてミュージシャンになることを決意した若者が、自分の音楽を理解しようとすらしてくれないプロデューサーと衝突し、理想と現実の狭間でもがき苦しむ、なんてのは、よくある作り話ですね。
でも、音楽を売るならば、売り手は、売る音楽について価値を見出していないかのように振舞わなければならない。
そういう意味では、プロデューサーのスタンスが正しい商売人のあり方と言える。
これって、どんな種類のアーティストであろうと、プロとして生きていくならば、自分にウソをつき続けないといけないんだろうなぁと思うのです。
でね、そうやって売られているモノを買う私たちって、モノを買うときに「売り手にとってはいらないものだ」ということをどこかで感じているんじゃないの?って思うのです。
そうすると、文化がどんどん売り物になっていくと、「その文化は私にとっていらないものだよ」っていう振る舞いをする人も増えるし、「売ってる人はこの文化を必要としていないんだ」って感じる人も増える。
そうすると、なんだかその文化のなかにどっぷり浸かることもできないし、踏襲して後世に伝えていくってのが馬鹿らしく思えてくる。
その流れが私の「なんだか正月っぽくないなぁ」という感想になって現れているという可能性もゼロではない 笑
取り敢えず、正月にみかん食いながら広げに広げた妄想を開陳してみたのでした。