「ということにする」について
さくっと更新です。
今回の話題はこれ↓
「ということにする」
回を重ねるごとにテーマが意味不明になっていきますね。笑
だいぶ、頭のほうがぶっ飛んできているのかもしれません。
まぁ、いいのです。
もともと、いいかげんな日記なので。
さて、この話題はかなり前から考えていることで、というのも、「ということにする」という感覚というか、気持ちって、かなり重要な役割を持っているのではないかと思うのです。
例えば、、、そうだなぁ、服について考えると、
私服とか、スーツとか、色々ありますけど、皆さんそれぞれの服に対して「○○用」ってのが何となく(あるいは、明確に)決まっていると思うんですよ。
部屋用とか、お出掛け用とか、初デートみたいな勝負用とか、仕事用とか。
でもこれって、「ということにしている」だけであって、それらの服自体はどこで着てもよい、というか、どこであっても着ることは可能なわけです。
パジャマでデートに行くことも、商談に向かうことも(するかしないかは別として)不可能ではない。
でも、それは「ということにする」という(自分あるいは周囲の)決め事から外れているのでやらない。
そう考えると、常識とか、ルールとか、仕組みとか、諸々全部ひっくるめて「ということにする」っていう言葉でまとまるよね、ってことを時々ぼんやり考えているんですよね。
そこには、真理とか真実とかそういう確定的な、というか、固有のものって無くて、すべては、「ということ」にしているだけなんだなぁ、と。
(ま、真理とか真実って認識も「ということにする」の範疇から外れないでしょうが。)
こうやって考えると、何かで辛い目に遭ったときなんかに、結構役に立つと思います。
「辛い」とか「不幸な境遇」というのも、きっと、自分や周りが
そういう状態を「辛い」とか「不幸な境遇」ということにしよう、と決めている
という側面が多少なりともあるのではないでしょうか?
辛い目に遭って精神的にボロボロになったときに、大自然を見て自分がちっぽけな存在だと実感して立ち直るみたいな話はよくありますが、こういうのって直感的に上のような事を感じるんじゃないかなぁ。
さらにさらに考えると、私も含めこの世界にいる人みんなが、こういう「ということにする」ってことに命賭けているんですよね。
何というか、幻想を命を賭して守っているというか、自分の人生使って演技しているというか。
そういう側面ってありません?
人生ゲームって、そういう側面を風刺するような、そんなゲーム(ジョーク?)として見ると面白い。
ああ、こういうことに命賭けているんだな、なんて(ゲーム中はそんなこと全く意識しませんが)暗に語りかけてくる、意外と深いゲームですよね。笑
あ、「ゲーム中には意識しないけど」ってのがミソなのかな。
ゲーム中はそこに出てくるお金やら株券やらってのが、実際に価値を持っているんですよ。(最終的には、配偶者や子どもまでお金に換算されちゃいますが。。。笑)
それは、プレーヤー自身はそれらに「実際的な価値はないけど、価値があるということにする」って意識を共有しているから。
だから、ゲーム中はおもちゃのお金やら株券が欲しくなる。
だけど、ゲームが終わったとたんにそれらは無価値なただのおもちゃになる。
もし、このゲームを創った人が、ゲームを離れるときの感覚を狙ったとしたら、その人はもの凄く面白い人だなぁって思います。
もし、そうであれば、その人の世界観について、ぜひとも話を聴きたいなぁ。