二日続けて書いてみた
珍しく連日の更新です.
今日はこのネタで書きましょう.
国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれない
私は理系ですが,これは心配な話です.
ここでは,ざっくりと「理系」と「文系」で書きます.
そもそも,お役人さんって文系が多いのではないのでしょうか?
(自己否定しているような気がしなくもないですが...)
さて,この手の話は以前もちょろっと書いた気はしますが,私,社会を回す中心にいるべき人は文系の人だと考えています.
科学技術がいかに発展して,社会的な影響が大きくなったとしても,やはりトップには文系の人(たとえ理系であっても,ハイレベルな文系的素養がある人)が座るべきだと.
なぜなら,人間の社会は人間でできているから.
この世界が極めて個別的な出来事の積み重ねで成り立っているから.
理系は普遍性を求める.
時間も空間も違う環境であっても,同じように通用する自然法則を追いかける.
でも,社会は違う.
時間や空間が違えば,人の考え方も習慣も何から何まで違う.
私は,文系の仕事を,自然界の中でも「人」という極めて個別具体的な,しかし,私たちにとっては極めて重要な事柄を扱うものだと認識している.
人の考え方は移ろいゆくが,その変化の仕方は必ず過去の考え方に影響されている.
人の行動は,表層を観察するだけでは真に理解できない.だから,互いの歴史や現在置かれた環境などのバックグラウンドを知り,その心情を推測することで,肌感覚では理解し合えない他者と上手に共存できるのだと考えている.
そのような活動に専念したことがある人と,そうでない人ではこの社会で「うまくやっていく」方法に巧拙が出るのは当然だろう.
そういう意味で,理系の人間は科学技術について考える訓練や習慣が十分とは言えない.(少なくとも,私が受けた大学教育では)
合理化や最適化という問題に関しては,理系が得意なのだろう.
ただ,ここで言う合理化や最適化は,この世界の具体性や個別性など一顧だにしていない.
合理化や最適化によって生じる人間同士の軋轢や文化・習慣の破壊などまったく考慮できない.
理系的なモノの考え方で全て片付けようとすると,要らぬ軋轢を生むだろう.
(既にかなり多くの厄介事を生んでいると思うが)
理系は,社会を上手く回すための道具を提供する.
文系は,私たちが上手いことやっていけるように,それらの道具の使い方を決める.
(ときには,「使えるけど使わない」という選択肢だってあるのだ.この判断ができるのは文系ではないか,と思う.)
これが役割分担というものではなかろうか?
もう少しだけ話を絞ると,自国や他国の歴史,文化,習慣,あるいは,人類全体の性行を徹底的に知り,他者の思考パターンをトレースできるようになれば,外交で(ときには戦争状態となったときでさえ)上手く立ち回れるはずじゃないですか.
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」
「ペンは剣よりも強し」
と言うじゃないですか.
『菊と刀』はそれを実践した(された)書物じゃないですか.
(そういう意味では文系って,理系以上の実学だと思うのですが...)
ということで,文系の方々,この苦境に負けないでください!
陰ながら応援しています!!