いいかげん日記

思いついたことをただひたすら書き殴るいいかげんな日記です。

長いこと書いてみた

更新します.

 

今回の話題はこれ

 

「教育を語る人」は自らの発言がもたらす教育的な効果を考慮しているのだろうか?

 

 

はい.

ということで,この話題を思いついた記事はこちら

学校だけでは教育が成立しない時代 | web R25

 

とても熱心に議論されております.

私も,なんだかんだで教育ってものに興味があるので,この手の話はついつい読んでしまうのですが,この対談内容に関しては「これを実践すると,子どもにとってはちょっと息が詰まる環境になるなぁ」というのが率直な感想です.(もっというと,なぜにこんなに子どもを信頼できないの?なぜにここまで管理しなきゃいかんの?ある程度放っておいた方が(というのは,お前なら放っておいても大丈夫だという信頼を見せてやれば)健全に育つものじゃないか?と思います)

 

さて,教育に関して語るとき,「教育問題」という言葉が出てきたり,「教育問題」という言葉が出てこないまでも「現状のココがダメだ」などの論調で語られることが大半で,あまりいい話を聞かない.

 

たぶん,皆さん「教育を今よりもっと良いものにしよう」という気持ちで口角泡を飛ばしながらの激論を交わすのでしょう.

 

が,こういう議論を傍から見てるとどうにも,「今,交わされている議論を現行の教育を受ける人も見ており,その議論の内容ついて,(完全ではないまでも)理解している」ということはひとまず隅に置いておかれているような感じですよね.

 

私も,周りから「ゆとり」と揶揄される教育を受けてきましたが,「周りの大人から揶揄されて,激しく批判されている教育体制のもとで育ってきたこと」は中学生の頃から理解していました.(人によっては小学生から理解していた人もいるでしょう)

 

私はですね,「現在の教育がダメだと散々言われていることを教育を受ける人が知っている」という状況こそ,どうにかならんもんかと思うのです.

 

だって,教育を受ける人がその教育効果を信じなくなったら,効果が出るものも出なくなるでしょう?自虐的になるだろうし,年長者に対して,自信をもって振る舞えなくなるでしょう?

 

教育批判は,表向き「現行の教育体制を運用している人への批判」ですが,教育を受ける人が聞くと,自分が否定されているかのような印象を受けてしまうものだ,というのが私の意見です.

 

子どもは大人が思っているよりも多くのことを理解しているし,理解できる.

色々なことを理解した上で,「子どもらしく振る舞う」ことだって日常的にやっている.

誰もがやってきたことでしょう.

 

だから,大人として子どもと接する場合は,子どもを「か弱くて,大人が守らなければ生きていけない存在」としてなめてかかるより,知性をもった1人の人間として接した方が遙かによい関係を作れると思う.

 

ちょっと,横道に逸れました.

 

つまりは,教育批判する人は「その批判自体が教育効果を生んでいることを考えているのかなぁ」ということです.

 

 

と,ここで終わったら,私も教育批判しただけになってしまうので,ちょっとは現状の良いことを言っておこう.

 

 

 

最近,こんなニュースがありましたね.

 

代ゼミ、20拠点閉鎖へ…少子化で7拠点に集約 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

これ,私は結構良いニュースだと考えています.

前々から,学問的な知識をチープなやり方で売り物にする予備校の姿勢に賛同出来なかったということもあるのですが,予備校が言う「学習」とか「勉強」って,その本筋とは全く違うものだから.

 

ここら辺は,内田樹さんの意見を焼き増しすることになるのですが,勉強することを「コスト」と考えて,最小コストで最大のリターンを得るというのが,現在の(前々からかもしれませんが)学生・生徒の「学習」「勉強」に対する姿勢の主流となっています.(ここでいうリターンとは,社会的・経済的に優位な地位を獲得すること.)

 

そして,私は,このような姿勢を主流にした大元の1つが予備校だと思っています.

 

では,なぜにこの姿勢を嫌うか,というと,「学習」「勉強」の内容に対する「楽しさ」を奪う,ということと,「勉強」を「点を取ること」と勘違いしたままだと,後々あまり幸せになれないと思うから.

 

勉強を「コスト」と考えると,目に見える「リターン」が見込めない場合,勉強することを止めるでしょう.

 

でも,(きっと)長い人生においては勉強の連続だと思いますし,(何であれ)勉強することで自分の考え方や世界の見方が変われば変わるほど人生を深く味わうことができるのではないかと思うのです.そういうことをたくさん経験できると,より幸せに生きられるんじゃないかなぁと.こういうのって,目に見えるリターンじゃないですよね.

 

ということもありますし,結局,幸せであればそれでいいのですから,自分の中で「楽しい経験ができる活動」を増やす方がいいじゃないですか.だから,(どうせやらなきゃいけない)勉強をわざわざつまらない物にしたら損じゃないですか.

 

「勉強=コスト」と考えてしまうと,こういう幸せへの道を入り口から断ってしまうんじゃないですかね?それってあんまりだと思うのです.

 

もちろん,予備校で講師をしている人は「勉強=点を取ること」とは考えていない(と思う).

あくまでも,「大学で本来的な勉強をするために講じる苦肉の策」として,大学受験を突破するためのテクニカルな知識を提供しているに過ぎないという認識だと考えている(と信じている).

 

ただ,それを勘違いする人は必ず出てくる.

しかも,予備校の売り出し方はそれを増長するような方法を採っていると思う.

 

これがもし,「教育が市場的な価値を持ったときの当然の帰結」であるならば,教育が儲かる業界になる世の中はロクなもんじゃないな,と思うワケです.

 

 

そのようなわけで,代ゼミが教育市場(と言っていいものか.)からの撤退しつつあるという現状は,「教育が市場的な価値を持たなくなりつつある」ということですので,今よりも幸せに暮らせる人が増えるのではないかという意味で良い方向に進んでいると考えているのです.

 

 

あとは,これをきっかけに一企業に依存した「学習」ってどうなのよ?という話になるといいなと思います.

 

 

 

 

相変わらずまとまりがない文章だなぁ.

説得力もないし.

そもそも,前半と後半で理路は通っているのか? 笑

 

まぁ,後半部分は色々理由をこねくり回しましたけど,結局のところ,私が単に予備校の「売り方」が嫌いだってことを表明したかっただけかもしれませんね.