更新です。
前回のお話と関連して話題を1つ (これまた当たり前の話ですが) 。
私は幼い頃から父親に「苦労する総量はみんな一緒」と常々言われ続けてきました (というか、今も言われています 笑) 。
「だから、今のうちに苦労しておけ」と。
まぁ、父親も方便として言っていたでしょうし、一理はあるのでしょうが、私ははじめから違和感がありました。
まぁ、そうやって思うと、辛いときでも同い年の人より先に苦労の量を消化したみたいでなんだか少し得した気分になるので、自分でもそう思い込もうとしていました。
でも、そうやって思い込もうとしても、やっぱり幻想というか、希望的な考え方だなぁ、って思ってしまうのです。
自然でさえ、ものすごく不均一で、森や砂漠は局所的に広がっており、石油だって局所的にあるから争いが起こるわけで。
人は自然現象の一部であって、その苦労の量だけが均一に分配される理由はないのです。
ただ、もし仮に「本来、苦労する量がみんな一緒」だとしても、苦労って人に押しつけることができるので、結局は不均一になるんですよね。
その例は前の記事に書いたような、利害の著しい不均一が生じたとき。
この利害の不均一性の起源は、だぶん、結局のところは「地の利」のような自然の不均一性に関係しているのでしょうね。
農耕民族なら川の上流にいる方が得するし、放牧民族なら牧草がたくさん生えている場所にいる方が得する。
(もう少し大きな視点で見ると、自然に偏りがない地域の方が偏りが大きい地域より争いは少ないし、争いの少ない地域に住む人の方が争いの多い地域に住む人よりケンカに弱い。)
ひとたび利害の不均一が生じると、利する人が害する人に施す代わりに、利する人が負うべき苦労を害する人に押しつけることができるようになる。
苦労を押しつけても何の支障もないなら、しない理由がありません。
だから、やっぱり苦労の量は不均一になるのです。
ま、だからどう、ってこともないのです。
自然が不均一である以上、放っておけばこうなるのは自然の成り行きだと思います。
あと、自然が不均一であるおかげで、今の自分がいるわけですし (自然が均一ならば、原子がこれだけ局所的に寄り集まって私の体を構成するワケがありませんので) 。
父親も、そんなことは百も承知で言い続けているのでしょう。
「苦労する総量はみんな一緒」
これは、「俺たちは平等で公正な社会にいるんだ」といったことも暗示するキレイな言葉だと思います。
大袈裟に言えば、自然から生まれた人が自然に立ち向かう姿勢なのだとも思います。
ただ、現状はそうではない。
そして、私たちは全体的に見ると、今は「利する人」の側にいる。
苦労を押しつけている本人が、人に苦労を押しつけていることに自覚的でないことも、往々にしてあるのではないでしょうか?
【追 記】
今更ながら、この話題は、二項対立の構造で考えるのには適さない話題だな。。。と、書き終えてから思ってしまいました。