久しぶりに更新します。
大きな山を1つ越えて久しぶりのゆったりした休日。
映画『ソラニン』他、邦画を3つ観賞。
『ソラニン』を観るのは2度目ですが、映画の主題と今の自分が丁度重なるので、今回は鑑賞後に真剣に考え込んだ。私も種田みたいだな。
人生における通過儀礼というか、何というか。私の周りの大半の人がもう越えている (少なくとも、そのように見える) 問題をずるずると引っ張ってここまで来た気がする。
現実は全く違うと勘づきつつも、とても青臭い、綺麗な理想を信じてたりする。
先が見えない現状に、漠然とした不安を感じ、それでもいつか終わりが来るとわかっている現時点での日常に埋もれていたりする。
この日常は近い将来、確実に終わる。
終わった後、自分はどうするのだろうか。
自分は生きるために必死になるのだろうか。
なぜ、今、必死ではないのだろうか。
今、そんなことを考えている。
考えながら書いて、考えをまとめようとしている。
私は、きっと、生きる実感が欲しくて、少し前に今の状態に身を置くことを選んだ。世の中の大半の人は選ばない選択肢だ。また、実家を出て、一人で暮らすようにもなった。これも、私の現状を知れば、大半の人は下さない決断だと思われる。それもこれも、全ては生きている実感を得るための自傷行為のようなものだろう。でも、フタを開けてみると、やはりそこにも繰り返しの平凡な日常があって、そこに埋もれている自分がいた。
ま、甘っちょろい話である。
他人からしたら、「しらねぇよ、そんなこと」と一蹴して終わる話だ。
悩むくらいなら、不安がるくらいなら、将来のために動け。
それも頭ではわかっている。
わかっているならこんな記事、アップするな。
そら、そうだ。
でも、いいじゃないですか。
こんな、ちっさな、他人にとってはどうでもいいくだらない悩みが、持ち主不明の状態で人目に触れる可能性があるだけで、なんとなく私の気は晴れるのです。
ここでこんな支離滅裂な記事書いて、きっとまた問題を解決したつもりになってすっきりした気分になるのだろう。全く考えはまとまっていないけれど。
これで思考を止めたらダメなんだろうな。たぶん、日常に埋もれないためにはひたすら考えることを続けたほうが良い気がする。
ところで、
なぜあのとき、種田は泣いたのだろうか。
私には、わかるようで、わからない。